つめたい朝。 季節はまだ夏場だが、この日は珍しいほど気温が低かった。 ちょうど秋口か、そのくらいの涼しさだった。 僕は目覚めと同時に台所に向かい、朝のコーヒーを入れる。 姉も、僕も、ブラック派。僕はその日の気分で少しだけ砂糖を入れる。 姉ちゃんは、おそらく気付いている。 僕とアロエちゃんの微妙な距離に。 そういう事にいち早く気付き、そして何も言わない。 「責任の取れる男になりなさい」という言葉は、まだ生きているからだ。 同じ事柄のアドバイスを、二度三度言う必要は無い。 「寒いわね。」 「うん…。」 「そういえば実力テストがもうすぐね。」 「そういえばそうだね。」 「勉強ははかどっているかしら?」 「ロマノフ先生の課題がまだ残っているよ。」 「あら? ラスク君と作ったやつはもう完成したんじゃない?」 「同級生のやつを手伝ってる。」 「偉いわね。」 「工作楽しいし、男友達と遊ぶのがやっぱ楽しいや。」 実際のところ、工作を手伝うフリをしながら校庭でバスケットボールをやっていたりする。 ひとつのことに集中できないのも、男子ならではというか。 アロエちゃんは…。 ここ最近は特に変化が見られず、やはり教室では僕の隣に座る。 その行為が、まだバッド・エンドじゃないよと訴えかけているかのようだ。 まだ諦めてないからと、意地を張っているようにも見える。 この日の朝も、教室に一番乗りだったのはアロエちゃんだった。 芯が強いというか、気丈というか、まぁ自分のやり方を変えない。 相手が他ならぬ僕だからかもしれないけど…。 チャイムが鳴る直前になると、ぞろぞろと教室は生徒達で溢れかえる。 レオンさんとルキアさんのギリギリっぷりは、教員たちの間でも有名だ。 この日の1限は社会科のエリーザ先生の授業から。 ちょうど授業内容が前回の復習だった事もあって、 開始早々僕は睡魔に襲われた。 ぺしっ。 不意にちぎった消しゴムを、頬に投げつけられる。 アロエちゃんのペンギン消しゴム。 僕に注意を促したいときのこうやって使うので、 もう左半分が削れてなくなっている。 "寝てないんですか?" いつものノートの端の筆話。 なぜ敬語なのか気になるところだけど…。 "アロエちゃんこそまぶたが腫れぼったいよ?" 筆話には筆話で返す。 別に、小声で話せば先生には分からないのだけど。 "私は眠れなかったから。" "どうして?" "子猫の世話が忙しくって。" "ああ、マリーちゃんだっけ?" "ミルスだよ。" "ごめん。" "おかげで朝は目覚ましいらずだよ。" "なぜ。" "朝から部屋で運動会。" "なるほど。" たしかに子猫がいると朝忙しいと聞いたことがある。 夜は飼い主の布団に入ってすぐ寝てしまうのだが。 "ユウ君がいなくても寂しくないよ。" "それは良かった。" いきなり直球。 僕はひきつった顔をしながらおざなりな返事を返す。 「そこ!」 ハッとなって周囲を見る。 筆話の文字が小さくてつい覗き込んでしまったが、 エリーザ先生が教壇からこちらをガン見している上に、全生徒の視線がこちらに集中する。 気が付けば僕らの椅子の間はわずかに5cm。 これでは凝視されても仕方ない。 「いちゃいちゃは家でしなさい。」 「…はい。」 後ろのルキアさんがクスクス笑う声が聞こえてくる。 "バーカ。" "君の字が小さいからでしょ。" "これが普通のサイズです。" "うそつけ。" めんどくなったので授業に集中する事にした。 授業の内容が頭に入らない。 大陸の地図と歴史がなんとなく黒板に書かれているのは分かる。 それよりも、隣のアロエちゃんが僕に投げつける消しゴムのカスを せっせと準備している事のほうが気になるわけで…。 ぺしっ。 また来た。 今回はシカト。 ぺしっ。 頭の上に当たった。 気合でシカト。 ぺしっ。 首筋から背中の中に入った。 さすがにくすぐったくて身震いをしてしまう。 「そこ!」 エリーザ先生から2回目の注意が入る。 先生はたぶん僕達の関係にヒビが入っている事を知らない。 いや、この光景は誰がどう見ても「いちゃいちゃは家でしなさい。」だ。 服装を整えてアロエちゃんとの席の間隔をずらす。 アロエちゃんもさすがに消しゴムの弾を製造する行為をやめる。 気が付けば休み時間。 エリーザ先生の授業などてんで耳に入らなかった。 「恥ずかしいだろ!」 「ユウ君からかうの楽しくってつい。」 「授業中はやめてくれよ、授業中は…。」 「だって家で遊んでくれないんだもん。」 グサッと直球がやってくる。 「あ、喉渇いた。」 「??」 僕の机の下からペットボトルの緑茶を取り出してぐびぐびと飲み干す。 それ、こないだまでは自制していただろ…。 「おいしかった。」 「僕の分は…?」 新しいの買ってあげるから、と言わんばかりにサイフを出して満面の笑み。 そのまま廊下へ向かってダッシュしていってしまった。 「あれ? 仲直りしたの?」 「いいや、でも、今日はなんか機嫌がいいね。」 斜め後ろからルキアさんがにやにやしながら話しかける。 こちらもマジックペットの世話に忙しそうだ。 機嫌がいいというか、無理に明るく繕っているようにも見えるんだけど。 アロエちゃんは緑茶のペットボトルを片手にぱたぱたと走って戻ってくる。 「どうぞ。」 「おかえり、早いね。」 語学担当のアメリア先生が足早に教室に入ると、すぐにチャイムが鳴った。 各々好きな場所に移動していた生徒達が、それぞれの席に戻る。 テストが近いこともあって、アメリア先生の授業も復習的な内容が多かった。 プリントを使った小テスト、そして注釈的な内容の資料の配布など。 そのまま3限、4限とアロエちゃんとの筆話は続く。 どうせ授業内容は、今までやった事の反復だ。 "ユウ君、最近冷たいよね。" "そうかな。" "どうして遊んでくれないの?" アロエちゃんの表情がぐっと真剣になる。 本音。きっとこれが聞きたかったに違いない。 "最近、忙しいんだ。" "私の事嫌いになった?" "ちがう。" "他に好きな人ができた?" "ちがう。" "じゃあどうして。" "今は少し、考える時間が欲しい。" "そう…。" アロエちゃんは一度黒板のほうを向き、いままでの筆話内容を消去した。 合わせて僕も、ノートの隅に書かれた会話内容を消去し、配られた資料に目をやる。 ぺしっ。 授業に集中しようとした僕に、消しゴムが投げつけられた。 アロエちゃんのノートの端に、新たな筆話が書かれていた。 "嫌いじゃなくて、良かった。" 大きな字で、楷書体で書かれていた。 席の位置が離れていても、すぐにその文章は確認できた。 僕は、筆話に対する返信は書かなかった。 言葉通り、僕はアロエちゃんの事を嫌いじゃあないからだ。 その後の5限と6限の授業は、アロエちゃんと別行動の野外実習だった。 アロエちゃんとの筆話はそこで途切れたのだけど、 逆に僕は自問自答に苛まれることになった。 僕は、本当はアロエちゃんの事をどう思っているのだろう? |
[PREV] [TOP] [NEXT] |